まだ名もなき者

私は今やりたいことがはっきりしていない。

ただ周りが言うこと、していることをただ考えもなしに流されるまましている。

惰性で生きているのだ。

だから地下鉄が通っているのをただ眺めているだけのような毎日を送っている。

その間幾度となく扉が開き乗客が出入りしている。私とは多分二度と会わない人たち、会ったとしてもきっと覚えていることなんて人たち。人々そして強い風が通り抜ける。

アイデンティティを表す服装も私は持たない。何年も変わらず同じ服を着ている。

だが乗客の潤いが消えてしまている髪や黒くくたびれてしまっている靴がいちいち目につく。膝のところが破けた自分のジーンズのことなんか全然気にならないのに。

 

平凡な毎日をどうにかして送っている。

時々、いや息を吐くたびにこの日々から抜け出してどこかに逃避したい気持ちでいっぱいになる。

最低限の人々としか話さず、残りはただ液晶画面を見て過ごすだけの日々。

変わるとしても画面に映し出される文字の話題が移り変わって行くだけ。

年を重ねるごとに得るものはメガネの度数が増えること、そしてフォローする人々の数、取るに足らない知識。

こうやって長い長い人生を過ごして行くと思うと残りの年数が私には勿体無いくらいだ。

どうやってこれからも過ごして行くのだろう。

今から考えるのも杞憂に過ぎないが、時々将来を想像すると悪寒がする。

テレビに次々と出てくる若い女の子たち、彼女たちはある時期を通り越したらまるでお払い箱に入れられたように、表舞台から見なくなり、新しい子がその場を飾る。

見かけなくなった彼女たちは、それでも何処かでその存在をアピールせずにはいられなくて、意図が見え透いた写真なんかをアップして暮らしてゆくのだろう。

ただそれを無表情でスワイプする姿が将来の私の姿なのかもしれない。

人には生き方が多様にあって正解なんて存在しないのに、大多数のものが無難であって王道であるからか、それを望んで中途半端に終わってしまう。

そしてSNS上に蔓延る写真で切り取られた姿の前であまりにも無残に心が砕けてしまう。

別に持ち物や容姿でその人間を判断してしまえるという考えでいる自分に軽蔑をしてもいいくらいだけれど、持っている人の前では誰しも自分が劣っていると考えたり、惨めな気分になったりすることは1度とないし経験したことがあるだろう。

それが永遠と続くのだから、私たちは便利で快適な時代に生まれたのか、それとも個人のコンプレックスや卑屈な精神を助長するのに長けた時代に生まれてしまったのかよく分からない。

だが、何か行動を起こさなければそれこそ時代の被害者になるだけだ。

傷を負うのは嫌だが、立ち上がって、戦わなければならないのだと思う。

そして自分がこれまで擦りむいてできた傷跡を愛せるように、癒せるようになれるよう暗闇の中をもがかなければならないのだと思う。

 

Love Yourself